大河ドラマ『八重の桜』でその内出てきそうなので、今日は八重さんの茶の湯の師に当たる裏千家13世円能斎の母である千猶鹿子さんについて少し書いてみたいと思います。
猶鹿子さんは、11世玄々斎精中の長女さんです。真精院猶鹿子と呼ばれます。
では猶鹿子さんに至るまでの、11代玄々斎の頃からの千家の流れを簡単にご説明しましょう。
玄々斎の後継者と見られていたのが、玄々斎が37歳の時に生まれた長男千代松です。
裏千家の方には一如斎(いちにょさい)と呼んだほうがわかりやすいかもしれません。
一如斎が7歳の折に、点前始めを記念して玄々斎が好んだ「曙棗」は、現在でも裏千家で最もよく使われる棗の一つとなっています。
しかし、一如斎はわずか17歳にして夭折してしまいます。
玄々斎には一如斎の4歳年下の娘、猶鹿子がおりましたが、女性の為、後継ではありませんでした。
尚、この猶鹿子さんが生まれた時に玄々斎は「豊兆棗」を好みました。
玄々斎の子煩悩ぶりが伺えます。
後継者を探す玄々斎は一如斎の亡くなった翌年、玄々斎の兄である渡辺又日庵の末っ子、渡辺織衛を養子に迎え、千宗淳と名乗らせます。
宗淳はその後徹玄斎と名乗りますが、千家を継ぐことなく、三河に帰ってしまいました。
様々な理由はあったとは思いますが、原因の一つには時代背景があったものと思われます。
明治に入ると、大名の庇護をなくした茶家や諸窯は、生活の基盤を失い、その業を辞める者が多くいたと言われます。
また新政府からは茶道を芸事と決められ、鑑札制度として政府に届け出ろと言われます。
この鑑札制度は免許登録のようなもので、登録しないとその芸事をしてはいけないとされました。
登録にはお金がかかり、これが課税として新政府の財源の一つとなったのです。
ちなみにこれは玄々斎が三千家を代表して『茶道の源意』というものを書き、京都知事に提出します。
それが認められて、茶道は鑑札制度の対象から外れることができました。
余談ですね。
とまあ、そのように茶家にとっては苦難の時代であったと言え、徹玄斎が裏千家を継ぐことを望まなかったのも無理はなかったのかもしれません。
そして、後継者に逃げられた玄々斎は齢62歳の時に、角倉家から又妙斎を養子とし、娘猶鹿子と結婚させます。
その翌年には長男円能斎が生まれました。早いですね。
そんな風にして、12世又妙斎と猶鹿子さんの時代となります。
ちょうど八重さんとも近くなってきました。
又妙斎は玄々斎の引退に伴い、明治4年に20歳の若さで家元を継ぎましたが、わずか14年後34歳でありながらも、家督を長男駒吉に譲りました。
その後は隠退しつつも、地方を回り茶道の振興に努めたとされています。
妻の猶鹿子も真精院と名乗り、女学校の茶儀科や、京都の宮家や公家などの令嬢に茶道指南をしました。
これにより、以降裏千家の門下に婦人が多くなったとされ、猶鹿子さんの功績と言われています。
この時の女学校が京都女紅場(後の府立第一高女)であり、八重さんが紅権舎長・教道試補として働いていた場所なのです。
そこで交流を深めた猶鹿子さんと八重さん。
八重さんは猶鹿子さんが勧める茶湯に興味を持つようになります。
後半に続きます。
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