さて、先日「本歌取り」についてお話しました時に、
更好棚について思い出したので、今日はそれについてお話します。
さて「更好棚」を知っている人もいれば、知らない人もいると思いますので、簡単に説明させていただきます。
まず、前提として利休さんの使われた「三重棚」というものがありました。
これは全て桐材で作られた棚で、天板、上中棚、下中棚、地板の4枚で構成され、寸法は奥行幅共に約一寸(約30.3cm)で作られていました。

これです。
利休好という記載のものも多いですが、好んだというより、寸法を指示して作られたようなので、ここは「利休形」というべきですね。
さて、その三重棚を本歌として、新しい棚を好んだのが、裏千家11世の玄々斎精中さんです。
玄々斎は裏千家の血筋ではなく、三河奥殿藩の藩主、松平乗友の子として生まれました後、わずか10歳で、当時裏千家の家元10世認得斎の娘と結婚して婿入りし、裏千家を継ぐことになったのです。
ちなみに玄々斎のお兄さんは、尾張徳川家の家老となった渡辺又日庵さんです。
家老の弟が家元っていうのはなかなかレアなケースだったようで、これまでの尾張徳川家の茶道流儀は代々有楽流だったのに、この時だけ裏千家になるというレアケースが起きています。
失礼、話がそれました。
その玄々斎さん(当時は虚白斎)は利休形の三重棚を見て、考えたのでしょう。
さっき皆さんが感じたのと同じ感想だったのだと思います。
私はこう思いました。
高過ぎません?
座って点前するのに、三重棚は高すぎませんか。
多分、私と同じことを思った玄々斎(しつこいようですが、当時は虚白斎)さんは、天板の一番上を切り取るという荒業にでました。
そして、出来上がったのが、桐材の二重棚です。
この時は「虚白斎好 二重棚」となっています。
さて、玄々斎さんは幕末から明治と激動の時代の家元さんです。
幕府の力がなくなり、禁裏の発言力が強くなっている時期でした。
玄々斎は大名の庇護のなくなった茶道の隆盛を目指し、禁裏や明治幕府への接近を目指しました。
立礼棚の開発は、その後の茶道の隆盛の契機になった素晴らしい物でしたね。
さて、当時はただの桐木地の二重棚でしたが、これを禁裏に献上するにあたって、その二重棚を桐木地から黒柿合爪紅に改めました。

一度自らの好みとした棚をさらに変化させて好んだことから、「更」に「好」んだ棚として、「更好棚」の名が付きました。
これによって茶席に飾り置く棚として、更好棚は高い評価を受けます。
ちなみに私は裏千家15世鵬雲斎の好んだ「黒柿合爪黒 更好棚」も好きですね。
黒柿合塗に仕上げていながらも、柱は木目を潰して上品さを生み出すところが、渋いなーと思います。
さすがカリスマ大宗匠です。
もうすぐ卒寿だそうですね。
それでは今回はこの辺で。
さようなら。
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