さて、前回は珠光の足跡について書いてみましたが、自分で読んでいて訳がわからない文章になっていましたね。
まあ、言いたかったことは珠光について語られていることと、現実には少し開きがあるのではないかという、この一行に集約されることを書いてみたんですけどね…。
さて、気を取り直して次の問にいってみましょう。
2、侘び茶を提唱した珠光が、何故「徐熙の鷺の絵」などの高価な道具を所持していたのか?
これです。
これは現在、珠光所持、あるいは珠光名物と茶道具が残っており、「園悟克勤の墨跡」「投頭巾茶入」「徐熙の鷺の絵」「珠光青磁茶碗」「松花壷」「珠光小茄子」などがそれらに挙げられます。
しかし、それらすべては本当に珠光が所持し愛玩していた道具たちだったのでしょうか?
まず、おさらいです。
珠光は奈良称名寺の下僕という立場から上洛してきました。
その目的は茶湯者を志したとありますが、それはあまりにも都合の良い後世の創作の可能性が否定できません。
なぜかというと、その当時茶の湯というものは独立した芸能と見なされていなかったからです。
茶の湯の者を志したとしても、将軍にでも仕えなければ暮らしていけません。そして将軍には既に同朋衆と呼ばれる芸能集団が存在していたのです。
ここで、珠光は茶の湯の者を志したのではなく、商売を始めるために来たのではないかという推論を立てます。
珠光が真珠庵に収めた寄進も一貫文という当時の町人が払う金額としては巨額すぎることからも、珠光に金銭的余裕があったことがわかります。
当時奈良では称名寺の下僕の地位にいた珠光には、もともと金銭的に余裕などあるはずもありません。
しかし、京都の公卿山科家との友誼の記録も残っており、能阿弥との交友もあったことから、想像できることは、茶道具の売買や真贋の鑑定、さらには表具の直しなどを請け負っていたのではないでしょうか。
その縁で、珠光は将軍義政をはじめとした各有力大名たちにその存在を知らしめたのではないでしょうか。
とすると、これらの珠光名物と呼ばれる道具群は、本当に珠光の所持であったのかというと、そうではない可能性もありますが。
しかし、ここで本題です。
●侘び茶を提唱した珠光が、何故「徐熙の鷺の絵」などの高価な道具を所持していたのか?
というはじめの問いについてですが、実はこれ設問自体はミスリードを誘発させるために作った問です。
つまり、私が言いたいことは、珠光は侘び茶を提唱してはいなかったのではないかということです。
さて、この疑問を提示したまま、次回までお待ちください。
それでは今日はこの辺で。
さようなら。
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