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珠光のお話④

さて、少し時間が経ってしまいました。
本業が忙しくて、更新できませんでした。

さて、今日は前回話した内容についてですね。
これです。


「珠光は侘び茶を提唱してはいなかったのではないか」



では、今日は今日は回りくどいことはせずに、何故このような問いかけをしたかについて、説明させていただこうと思います。



まず初めは、珠光の後継者であった宗珠についてです。


珠光の養嗣子の宗珠は当時の貴族社会、文化人との間において、一級の数寄者であったことが、当時の公卿の記録書『二水記』に記されています。

そこでは、宗珠は「下京の宗珠」と呼ばれ、数寄者の随一とされ、皇族や公卿の茶会にも頻繁に参仕したことが書かれています。

しかし江戸時代以降、宗珠の名は珠光の名物を譲り受けた後継者という記述に留まり、本来の珠光の後継者という存在としては消えていってしまいます。

その宗珠の代わりに珠光の後継者として名が出てくるのが、経済の中心地だった堺の商人の一人で利休の師としても知られている武野紹鴎です。



紹鴎のことを簡単に説明しましょう。

武野紹鴎の父信久は、武具や馬具に使用する皮革を商い、財を成した人でした。
その息子である紹鴎は、連歌師を目指して上京しましたが、戦乱に巻き込まれた後に堺に戻ると、茶の湯の道に入るようになり、いつしか茶の湯の名人として名が知られるようになりました。

恐らく茶の湯の道を志した人物は紹鴎の他にもいたと思われますが、その中でも特に紹鴎が名人と呼ばれるようになったのには、幾つかの理由がありました。
 
 ①  公卿で連歌師の大家、三条西実隆に歌道を師事したことで、
    文化人として高い評価を得ていた。

 ②  当時の堺において、有数の商家であった為、名物の収集などが容易であった。

 ③  南宗庵(後の南宗寺)に来住中だった大徳寺の大林宗套禅師から
「一閑居士」の号を授かった。
    (当時の大徳寺は禅林のなかでも独立独歩の寺営で、人気が高かった)

 ④  紹鴎は西本願寺の門徒だった。
    当時の西本願寺は堺衆の動向を左右する大きな勢力の一つだった。


といったところです。

もちろん紹鴎の茶の湯の創意工夫や目利きなど、茶の湯の第一人者となる理由はもっと多くありますが、取り敢えずそれは置いておきましょう。

大切なことは紹鴎が衆目の見るところ、当時の茶の湯の世界において一番始めに記される名であったことです。宗珠ではなく紹鴎であった理由は、簡単にまとめると立地条件にあると言えます。














宗珠


紹鴎


活躍した場所




茶の相手


皇族、公卿など


商人、僧侶などの町衆





戦乱が起こり始めた京都に比べて、堺は商業の中心地として安定していました。
それにより京都の文化は堺に避難してきました。特に文化人たちの移住が多かったのです。

宗珠は確かに珠光の後継者として名が知られ、京都においてその評価を高めました。

しかし、文化の中心は京都ではなく堺に移っており、京都での活躍は目立たないものでした。
経済の中心地であった堺にはまた、権力者たちとの結びつきも強くなってきます。



珠光は将軍の側近の一人の能阿弥と懇親があり、禅師として名高い一休禅師に参禅しています。
紹鴎の弟子の利休や娘婿の今井宗久らは信長・秀吉の茶頭として天下に名を馳せます。

つまり、珠光の茶を継承したのは宗珠でしたが、時代を代表した茶人の変遷が珠光の後に紹鴎の名を挙げたのです。





少し話を飛ばしますね。



利休が自らの美意識に基づいて、茶の湯の寸法を制定し、その法を定めたことはその後の茶道の歴史においてどれだけ重要であったかは、すでに多くの書物によって書かれています。

その利休の茶の湯の意識の中に「侘び茶」に対する割合というものは非常に大きいものでした。

利休は仕えた人物に対し、その責務とも呼べる権力者の茶の湯の制定を行いましたが、その一方で待庵や楽茶碗といった、独特の「侘び」の意識の中で自らの茶の湯を昇華させました。


しかし利休の凄さというものは、待庵や楽茶碗といった創造をしたことだけではありません。

従来の書院の茶や、秀吉が好んだ華やかな(ショー的な)茶の湯と、そして侘び茶とを同時に存在させたことにその非凡さがあるのです。

東山から続く書院の茶は北向道陳から、そして北野大茶の湯に見られるショー的な茶の湯は権力者の意向から、そして侘び茶は紹鴎の影響が大きかったことがわかります。


武野紹鴎は堺において、大林宗套禅師により「茶味と禅味と同じきを料知し」という参偈を受けました。ここに「侘び茶」の重要なファクターであった「禅と茶のさらなる結びつき」が強化されました。

紹鴎は茶の湯がただの遊興ではなく、禅の道に通じる修行のものと捉えました。
これによって茶の湯は、文化的な価値観、あるいは評価というものを一段と高めたのです。



そして、話を戻します。


珠光と武野紹鴎は本来結びつかない存在でした。


しかし、千利休という存在が茶の湯を大成した後、茶の湯に関わる人はその格を高めようとします。
つまり「私がやっている茶の湯はこれだけ凄いものなんだぞ」ということをアピールしたい訳です。

それに都合がよかったのが「茶禅一味」という言葉。
つまり当時人気の禅宗との結びつきを強調することで、茶の湯が文化的に高いレベルのもの(茶をやるということは、座禅を組んで修行することと同じことなのだ)という説明になります。


そしてそれこそが、本来結びついていない紹鴎と珠光を結びつけた理由なのです。


「紹鴎は大林宗套禅師に師事し、茶禅一味の境地を悟りました」
どうでしょう。これだけでもいいと思いますが、少し弱いですね。茶の湯が禅と同じだからといっても、それは武野紹鴎の茶の湯に限ったことかもしれないからです。


そこでどうしようかと見渡してみます。過去も振り返ってみましょう。

すると、丁度よく茶と禅が結びついているという根拠になりそうなうってつけの人物がいました。
特にその人物に禅を教えた人物は、当時絶大な人気があった禅師、一休宗純禅師です。
さらにその茶の湯を見てみると、とても精神性の高いものでした。
それが珠光その人です。


これだと思ったかどうかは別として、茶人であった珠光が禅宗の師から禅の印可を得ているという事実があれば、それで十分だったのでしょう。
つまりこういうことです。


● 一休禅師に印可を得た人は茶の湯の珠光という人だった。
     ↓
● 武野紹鴎って人が、茶の湯と禅の修行は同じだって言っていた。
     ↓
● あの利休さんだって大徳寺に参禅してるみたいだから、やっぱり茶の湯ってすごいんじゃね。


この流れにより、紹鴎―利休の流れとなった茶の湯の歴史の源流に、珠光が置かれることとなったのではないでしょうか。


珠光と紹鴎とは繋がりはないけれど、禅と結びつけたその一事によって、茶の湯の創始者に持ち上げられたのだと思います。


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