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能阿弥のお話(空海の話2)


昨日勢いで書いた空海のお話の際に書いた能阿弥について、少しだけ補足をしますね。

能阿弥が同朋衆の一人であり、最も有名な人物のうちの一人であることは既に書きました。
今日はその続きです。



能阿弥は室町時代の人で、元々は越前の朝倉氏の臣下であったと言われています。
その時の名前は中尾真能(なかおさねよし)、頭を丸め、足利将軍の同朋衆となった後は、名の呼び方を(しんの、あるいはしんのう)と改め、それを自らの法号としたとあります。
また、水墨画をしたときの号は「春鴎斎」、春の一字を取って「鴎斎」とも名乗ったそうです。


ちなみに絵の師匠は周文さんです。周文さんといえば相国寺の禅僧で、国宝二つと重文がいくつもあるすごい人です。もっとも周文の落款があるものがない為、「伝周文」(周文作と伝えられているという意)のものがほとんどですが。

それで、この能阿弥さんで外してはいけないこと、つまり昨日言い忘れたことが次のことです。


それは能阿弥さんは「君台観左右帳記」の著者であるということです。

この本は中国の画人のランキング本であり、現在の茶道に関連のある書院飾りや陶磁器、文房具の鑑識について書かれた本で、ここから書院の茶の基礎が生まれています。


また、この能阿弥さんは村田珠光に茶の湯を伝えた人と言われています。

つまり、珠光→紹鴎→利休と呼ばれるラインは、実際には能阿弥→珠光→紹鴎→利休というラインであり、昨日の能阿弥→空海→北向道陳→利休という別のラインと共に、利休の茶の湯の下には能阿弥の書院流の茶の湯の影が見えるのです。


これは、昨日私が書いた、利休の茶のベースに書院の茶の湯の影が強く見られることの傍証になるかなと思います。



といっても、そもそもの茶の湯がそこから発しているだろうというご意見もあるかと思います。
しかし今まで利休の学んだ茶の湯というのは、「わび茶」を創始した珠光の茶を紹鴎が大成し、利休が深化させたというのがそれでした。


しかし私が感じているのは、利休の茶の湯には、能阿弥の茶、つまり室町将軍家で採用されていた茶の湯の影響があるのではないかということです。

私が何を言いたいのかというと、利休が自らの茶の湯を作り出した元というものが、ただ単に村田珠光―武野紹鴎から学んだわび茶を自分なりに昇華させたということだけではなく、書院の茶の影響を強く受けたことから生まれ出たのではないでしょうか。


それを私が感じたのは、足利義政が銀閣寺に作った「同仁斎」「東求堂」というものの存在を知ったときでした。

将軍という当時最大の権力者であった足利義政が建立したのが、およそ華やかさとは真逆の落ち着いた雰囲気のある東求堂という建物と、その東求堂の中の北向にひっそりと作られた四畳半の「同仁斎」という書院です。

そこには、いわゆる書院の茶と呼ばれる風雅を楽しむ茶の湯とは違い、内面を見つめる為の深い精神世界の茶の存在が見えてきます。

思えば、義政もそして信長秀吉に伝えた利休も、権力者の一人と見ることができるでしょう。
それが珠光紹鴎と利休がまったく異なる部分でもあります。

利休があのような茶の湯の世界を作り上げた素養の部分には、珠光紹鴎の茶だけでなく、この足利義政の精神世界と通じるものがあると感じられるのです。


おっと、能阿弥のことから話がそれました。


この話はまた機会に。
さようなら。
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