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茶楽悦楽

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円能斎と猶鹿子さん

続きが遅くなりました。
すみません。
では、さっそく前回の続きを書いていこうと思います。
短いお付き合いのほどを。

前回は、女紅場で猶鹿子さんと八重さんが出会ったあたりまで書いたと思います。

ですが、この頃はまだ茶道を本格的にはやっていなかったそうです。
この頃八重さんが夢中になっていたのは、キリスト教でした。

お兄さんの山本覚馬さんの影響です。
京都に住むアメリカ人宣教師ゴードンさんのお宅で、キリスト教を学んでいた八重は、そこで二人目の夫となる新島襄さんと出会います。
二人は程なく婚約しましたが、クリスチャンの伴侶となった八重は、それを理由に女紅場の職を解かれてしまいました。

その後、新島襄さんは同志社大学を設立する為に奔走しますが、わずか四十七歳の若さで亡くなってしまいました。
八重さんは襄さんを失い、深く悲しみますが、やがて日本赤十字社の正社員となり、篤志看護婦として日清戦争に従軍します。その時の活躍によって勲章を授与されるのですが、それはまた別のお話。

その日清戦争が始まる一年前に、八重さんはようやく茶道と出会います。

正式に裏千家に入門した八重さんは、四十九歳にしてようやく茶の湯を本格的に学び始めました。
裏千家13世円能斎さんの下に弟子入りしたものの、当時の茶道界は明治維新を経て、伝統芸能にとっては苦難の時代となっていました。
裏千家も例外ではなく、大名をはじめとした武家の庇護がなくなったことで、衰退の危機を迎えていました。

円能斎さんは、茶道の活路を開く為東奔西走しており、京都で千家を守っていたのは、女紅場時代を共にした猶鹿子さんでした。
八重さんは初めの内は、この猶鹿子さんに稽古の手ほどきを受けたとされています。

圓能斎の直弟子として弟子入りしたのは「新島襄夫人、大沢徳太郎夫人、田村宗園らであった」と茶道月報の記事が残っています。

大沢徳太郎は、同志社で学んだ実業家です。徳太郎の父善助は八重さんの兄である山本覚馬の門弟でした。善助は京都で大沢商会という電気事業の会社を設立し、事業家として名を馳せました。

田村宗園は明治四年に生まれ、造園と茶室に造詣が深く、今日庵の業躰として円能斎さんの補佐を行った人物として知られています。

八重さんをはじめとした彼女ら門弟は、ただ単に弟子というだけでなく、新時代を築く重要人物にゆかりのある方々でした。

それはつまり、裏千家にとっても有力なパトロンを得たことになります。
(経済的だけでなく、社会的立場としての背景としてです)

その後も八重さんは順調に修行を積み、明治43年には円能斎さんから「今日庵名誉引次之称号」と「宗竹」の茶名を受けています。

ちなみに「宗竹」の号は、夫新島襄が夫を失った悲しみで読まれた一首、「たのみつる竹は深雪に埋もれて 世のうきふしをたれとかたらむ」から取られたと言われています。


大正元年八月一日、八重さんは師である円能斎から「寂中庵」の額を贈られました。

新島旧邸に残る寂中庵は四畳半台目床であり、裏千家の名席「又隠」の写しと考えられており、八重さんと裏千家を結ぶ強い絆が見えます。


八重さんは昭和7年、86歳でこの世を去りました。

男尊女卑の世の中にあって、女性の地位向上を願い、時代を担う女子の育成に心血を注ぎ、江戸、明治、大正、昭和の四時代を生き抜いた烈女でした。


さて、大河ドラマもいよいよ明治時代に向かっています。
お楽しみ下さい。

それではこの辺で。







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円能斎と猶鹿子さん

大河ドラマ『八重の桜』でその内出てきそうなので、今日は八重さんの茶の湯の師に当たる裏千家13世円能斎の母である千猶鹿子さんについて少し書いてみたいと思います。

猶鹿子さんは、11世玄々斎精中の長女さんです。真精院猶鹿子と呼ばれます。


では猶鹿子さんに至るまでの、11代玄々斎の頃からの千家の流れを簡単にご説明しましょう。

玄々斎の後継者と見られていたのが、玄々斎が37歳の時に生まれた長男千代松です。
裏千家の方には一如斎(いちにょさい)と呼んだほうがわかりやすいかもしれません。
一如斎が7歳の折に、点前始めを記念して玄々斎が好んだ「曙棗」は、現在でも裏千家で最もよく使われる棗の一つとなっています。
しかし、一如斎はわずか17歳にして夭折してしまいます。


玄々斎には一如斎の4歳年下の娘、猶鹿子がおりましたが、女性の為、後継ではありませんでした。
尚、この猶鹿子さんが生まれた時に玄々斎は「豊兆棗」を好みました。
玄々斎の子煩悩ぶりが伺えます。

後継者を探す玄々斎は一如斎の亡くなった翌年、玄々斎の兄である渡辺又日庵の末っ子、渡辺織衛を養子に迎え、千宗淳と名乗らせます。
宗淳はその後徹玄斎と名乗りますが、千家を継ぐことなく、三河に帰ってしまいました。

様々な理由はあったとは思いますが、原因の一つには時代背景があったものと思われます。
明治に入ると、大名の庇護をなくした茶家や諸窯は、生活の基盤を失い、その業を辞める者が多くいたと言われます。
また新政府からは茶道を芸事と決められ、鑑札制度として政府に届け出ろと言われます。
この鑑札制度は免許登録のようなもので、登録しないとその芸事をしてはいけないとされました。
登録にはお金がかかり、これが課税として新政府の財源の一つとなったのです。

ちなみにこれは玄々斎が三千家を代表して『茶道の源意』というものを書き、京都知事に提出します。
それが認められて、茶道は鑑札制度の対象から外れることができました。
余談ですね。

とまあ、そのように茶家にとっては苦難の時代であったと言え、徹玄斎が裏千家を継ぐことを望まなかったのも無理はなかったのかもしれません。

そして、後継者に逃げられた玄々斎は齢62歳の時に、角倉家から又妙斎を養子とし、娘猶鹿子と結婚させます。
その翌年には長男円能斎が生まれました。早いですね。


そんな風にして、12世又妙斎と猶鹿子さんの時代となります。
ちょうど八重さんとも近くなってきました。

又妙斎は玄々斎の引退に伴い、明治4年に20歳の若さで家元を継ぎましたが、わずか14年後34歳でありながらも、家督を長男駒吉に譲りました。
その後は隠退しつつも、地方を回り茶道の振興に努めたとされています。

妻の猶鹿子も真精院と名乗り、女学校の茶儀科や、京都の宮家や公家などの令嬢に茶道指南をしました。
これにより、以降裏千家の門下に婦人が多くなったとされ、猶鹿子さんの功績と言われています。

この時の女学校が京都女紅場(後の府立第一高女)であり、八重さんが紅権舎長・教道試補として働いていた場所なのです。

そこで交流を深めた猶鹿子さんと八重さん。
八重さんは猶鹿子さんが勧める茶湯に興味を持つようになります。


後半に続きます。




珠光のお話④

さて、少し時間が経ってしまいました。
本業が忙しくて、更新できませんでした。

さて、今日は前回話した内容についてですね。
これです。


「珠光は侘び茶を提唱してはいなかったのではないか」



では、今日は今日は回りくどいことはせずに、何故このような問いかけをしたかについて、説明させていただこうと思います。



まず初めは、珠光の後継者であった宗珠についてです。


珠光の養嗣子の宗珠は当時の貴族社会、文化人との間において、一級の数寄者であったことが、当時の公卿の記録書『二水記』に記されています。

そこでは、宗珠は「下京の宗珠」と呼ばれ、数寄者の随一とされ、皇族や公卿の茶会にも頻繁に参仕したことが書かれています。

しかし江戸時代以降、宗珠の名は珠光の名物を譲り受けた後継者という記述に留まり、本来の珠光の後継者という存在としては消えていってしまいます。

その宗珠の代わりに珠光の後継者として名が出てくるのが、経済の中心地だった堺の商人の一人で利休の師としても知られている武野紹鴎です。



紹鴎のことを簡単に説明しましょう。

武野紹鴎の父信久は、武具や馬具に使用する皮革を商い、財を成した人でした。
その息子である紹鴎は、連歌師を目指して上京しましたが、戦乱に巻き込まれた後に堺に戻ると、茶の湯の道に入るようになり、いつしか茶の湯の名人として名が知られるようになりました。

恐らく茶の湯の道を志した人物は紹鴎の他にもいたと思われますが、その中でも特に紹鴎が名人と呼ばれるようになったのには、幾つかの理由がありました。
 
 ①  公卿で連歌師の大家、三条西実隆に歌道を師事したことで、
    文化人として高い評価を得ていた。

 ②  当時の堺において、有数の商家であった為、名物の収集などが容易であった。

 ③  南宗庵(後の南宗寺)に来住中だった大徳寺の大林宗套禅師から
「一閑居士」の号を授かった。
    (当時の大徳寺は禅林のなかでも独立独歩の寺営で、人気が高かった)

 ④  紹鴎は西本願寺の門徒だった。
    当時の西本願寺は堺衆の動向を左右する大きな勢力の一つだった。


といったところです。

もちろん紹鴎の茶の湯の創意工夫や目利きなど、茶の湯の第一人者となる理由はもっと多くありますが、取り敢えずそれは置いておきましょう。

大切なことは紹鴎が衆目の見るところ、当時の茶の湯の世界において一番始めに記される名であったことです。宗珠ではなく紹鴎であった理由は、簡単にまとめると立地条件にあると言えます。














宗珠


紹鴎


活躍した場所




茶の相手


皇族、公卿など


商人、僧侶などの町衆





戦乱が起こり始めた京都に比べて、堺は商業の中心地として安定していました。
それにより京都の文化は堺に避難してきました。特に文化人たちの移住が多かったのです。

宗珠は確かに珠光の後継者として名が知られ、京都においてその評価を高めました。

しかし、文化の中心は京都ではなく堺に移っており、京都での活躍は目立たないものでした。
経済の中心地であった堺にはまた、権力者たちとの結びつきも強くなってきます。



珠光は将軍の側近の一人の能阿弥と懇親があり、禅師として名高い一休禅師に参禅しています。
紹鴎の弟子の利休や娘婿の今井宗久らは信長・秀吉の茶頭として天下に名を馳せます。

つまり、珠光の茶を継承したのは宗珠でしたが、時代を代表した茶人の変遷が珠光の後に紹鴎の名を挙げたのです。





少し話を飛ばしますね。



利休が自らの美意識に基づいて、茶の湯の寸法を制定し、その法を定めたことはその後の茶道の歴史においてどれだけ重要であったかは、すでに多くの書物によって書かれています。

その利休の茶の湯の意識の中に「侘び茶」に対する割合というものは非常に大きいものでした。

利休は仕えた人物に対し、その責務とも呼べる権力者の茶の湯の制定を行いましたが、その一方で待庵や楽茶碗といった、独特の「侘び」の意識の中で自らの茶の湯を昇華させました。


しかし利休の凄さというものは、待庵や楽茶碗といった創造をしたことだけではありません。

従来の書院の茶や、秀吉が好んだ華やかな(ショー的な)茶の湯と、そして侘び茶とを同時に存在させたことにその非凡さがあるのです。

東山から続く書院の茶は北向道陳から、そして北野大茶の湯に見られるショー的な茶の湯は権力者の意向から、そして侘び茶は紹鴎の影響が大きかったことがわかります。


武野紹鴎は堺において、大林宗套禅師により「茶味と禅味と同じきを料知し」という参偈を受けました。ここに「侘び茶」の重要なファクターであった「禅と茶のさらなる結びつき」が強化されました。

紹鴎は茶の湯がただの遊興ではなく、禅の道に通じる修行のものと捉えました。
これによって茶の湯は、文化的な価値観、あるいは評価というものを一段と高めたのです。



そして、話を戻します。


珠光と武野紹鴎は本来結びつかない存在でした。


しかし、千利休という存在が茶の湯を大成した後、茶の湯に関わる人はその格を高めようとします。
つまり「私がやっている茶の湯はこれだけ凄いものなんだぞ」ということをアピールしたい訳です。

それに都合がよかったのが「茶禅一味」という言葉。
つまり当時人気の禅宗との結びつきを強調することで、茶の湯が文化的に高いレベルのもの(茶をやるということは、座禅を組んで修行することと同じことなのだ)という説明になります。


そしてそれこそが、本来結びついていない紹鴎と珠光を結びつけた理由なのです。


「紹鴎は大林宗套禅師に師事し、茶禅一味の境地を悟りました」
どうでしょう。これだけでもいいと思いますが、少し弱いですね。茶の湯が禅と同じだからといっても、それは武野紹鴎の茶の湯に限ったことかもしれないからです。


そこでどうしようかと見渡してみます。過去も振り返ってみましょう。

すると、丁度よく茶と禅が結びついているという根拠になりそうなうってつけの人物がいました。
特にその人物に禅を教えた人物は、当時絶大な人気があった禅師、一休宗純禅師です。
さらにその茶の湯を見てみると、とても精神性の高いものでした。
それが珠光その人です。


これだと思ったかどうかは別として、茶人であった珠光が禅宗の師から禅の印可を得ているという事実があれば、それで十分だったのでしょう。
つまりこういうことです。


● 一休禅師に印可を得た人は茶の湯の珠光という人だった。
     ↓
● 武野紹鴎って人が、茶の湯と禅の修行は同じだって言っていた。
     ↓
● あの利休さんだって大徳寺に参禅してるみたいだから、やっぱり茶の湯ってすごいんじゃね。


この流れにより、紹鴎―利休の流れとなった茶の湯の歴史の源流に、珠光が置かれることとなったのではないでしょうか。


珠光と紹鴎とは繋がりはないけれど、禅と結びつけたその一事によって、茶の湯の創始者に持ち上げられたのだと思います。


珠光のお話③


さて、前回は珠光の足跡について書いてみましたが、自分で読んでいて訳がわからない文章になっていましたね。
まあ、言いたかったことは珠光について語られていることと、現実には少し開きがあるのではないかという、この一行に集約されることを書いてみたんですけどね…。


さて、気を取り直して次の問にいってみましょう。



2、侘び茶を提唱した珠光が、何故「徐熙の鷺の絵」などの高価な道具を所持していたのか?


これです。


これは現在、珠光所持、あるいは珠光名物と茶道具が残っており、「園悟克勤の墨跡」「投頭巾茶入」「徐熙の鷺の絵」「珠光青磁茶碗」「松花壷」「珠光小茄子」などがそれらに挙げられます。


しかし、それらすべては本当に珠光が所持し愛玩していた道具たちだったのでしょうか?


まず、おさらいです。
珠光は奈良称名寺の下僕という立場から上洛してきました。
その目的は茶湯者を志したとありますが、それはあまりにも都合の良い後世の創作の可能性が否定できません。
なぜかというと、その当時茶の湯というものは独立した芸能と見なされていなかったからです。


茶の湯の者を志したとしても、将軍にでも仕えなければ暮らしていけません。そして将軍には既に同朋衆と呼ばれる芸能集団が存在していたのです。

ここで、珠光は茶の湯の者を志したのではなく、商売を始めるために来たのではないかという推論を立てます。

珠光が真珠庵に収めた寄進も一貫文という当時の町人が払う金額としては巨額すぎることからも、珠光に金銭的余裕があったことがわかります。
当時奈良では称名寺の下僕の地位にいた珠光には、もともと金銭的に余裕などあるはずもありません。



しかし、京都の公卿山科家との友誼の記録も残っており、能阿弥との交友もあったことから、想像できることは、茶道具の売買や真贋の鑑定、さらには表具の直しなどを請け負っていたのではないでしょうか。


その縁で、珠光は将軍義政をはじめとした各有力大名たちにその存在を知らしめたのではないでしょうか。

とすると、これらの珠光名物と呼ばれる道具群は、本当に珠光の所持であったのかというと、そうではない可能性もありますが。



しかし、ここで本題です。

 ●侘び茶を提唱した珠光が、何故「徐熙の鷺の絵」などの高価な道具を所持していたのか?


というはじめの問いについてですが、実はこれ設問自体はミスリードを誘発させるために作った問です。



つまり、私が言いたいことは、珠光は侘び茶を提唱してはいなかったのではないかということです。




さて、この疑問を提示したまま、次回までお待ちください。

それでは今日はこの辺で。
さようなら。








珠光のお話②

珠光さんのお話 続



先日は珠光さんについて、通り一遍のことを書きましたが、今回はそれについてあーだこーだ書いていきたいと思います。

今回は、次の三つのテーマについて書きたいと思います。


1、現在、珠光の後継者である宗珠、宗次、宗印たちに焦点が当てられていないのは何故か?


2、侘び茶を提唱した珠光が、何故「徐熙の鷺の絵」などの高価な道具を所持していたのか?


3、現在に伝えられる珠光像は果たして正しい姿なのか?



では、①からいきましょう! 頑張るぞ。




初めに当時の日本の情勢から言うと、応仁元年(1467)は、日本史を学ぶ受験生の方は忘れてはいけない年、そう「応仁の乱」が起こった年です。珠光さんは45歳くらいになっています。
山名氏と細川氏が京都を舞台にバチバチ争い始めた時代です。

その翌年の応仁二年(1468)には、京都の禁裏御服司だった山科家の記録に「奈良の珠光」の記述があります。これは「奈良出身の珠光」という意味か「奈良に住んでいる珠光」という意味なのかははっきりしません。しかし京都にいた事ははっきりしています。

京都で珠光が行ったとされることは、能阿弥に茶の湯を師事したことと、一休禅師に師事したことの二つが挙げられます。
しかし、能阿弥・相阿弥の活動を詳記した『蔭涼軒日録』という書物や、一休禅師の書かれた『狂雲集』などの記録から、珠光の名は出てきません。
(金春禅竹らのように有名な弟子の記述はある)

かろうじてある記録では、一休禅師の十年忌と十三年忌に真珠庵に「殊光」より寄進があった記録が残されています。

このことから、一休禅師と珠光の間には、何らかの関係があったものの、さほど強い結びつきがあったとは考えづらいです。

時代がくだり、『山上宗二記』には、能阿弥が将軍義政に珠光を推薦したことが書かれていますが、時系列が合わないので、後世の創作と考えても良いでしょう。
また『南方録』の記載では、義政・能阿弥が書院の茶(台子)を創始し、珠光が侘び茶を大成したと書かれています。
これも、信ぴょう性としては難しいですね。奈良称名寺の下僕から上洛した男を、いくら能阿弥が評価していたとしても、将軍に紹介するということが考えにくいからです。

話がそれました。

とにかくこの応仁の乱より少し前か丁度その年あたりに、珠光が能阿弥と出会っていたことは、事実なのでしょう。

これより以降、京都では応仁の乱が激化していきます。
文化の中心であった京都は荒廃の一途を辿ります。つまり茶湯の文化も京都を離れるようになります。

さて、ある程度茶の湯を収めた珠光も、住まいのメインは奈良です。
その奈良の地で、珠光は後継者と目された宗珠という人物をを奈良の興福寺から身請けしています。

宗珠は当時の茶の湯の開花に大きく貢献した人物として知られ、堺で武野紹鴎が名を馳せる丁度その時に、京都で活躍した茶人だとされています。


この宗珠は、京都の四条にある奈良屋村田三郎右衛門の屋敷内に「午松庵」という庵を作って、そこに居住したとされたので、そこから宗珠さらに父珠光の姓が、「村田」なのではないかと推測されました。

しかし、珠光の茶の湯の功績の実際はともかく、宗珠の功績は小さなものではありませんでした。
さらに珠光から『君台観左右帳記』や他の珠光の秘伝書を継承したとされています。

その後は「宗次」「宗印」「宗可」と続きますが、珠光の茶流はあまり流行しませんでした。
何故なのでしょうね?


さて、この年代で分かることが幾つかあります。


 ■応仁の乱があるこの時代に、下々の茶の湯を考案しても、あまり流行しなかったこと。
  
 ■文化的な中心が京都から大阪堺などの畿内に離れていったこと。

 ■利休以前の感覚では、茶の湯を血脈で継いでいく時代とは考えられていなかった可能性があること。
  (利休以後は、血脈で継いでいった)


珠光の評価あるいは評判が高まったのは、利休を称揚する声が増えた後の時代でした。利休以前の茶の湯は今より限定的で、お茶を学ぶ民間人(商人など)が少なかったのです。

つまり、珠光の後継者たちにスポットライトが当てられないのは、当時の人気があってこの話が出たというわけではなく、むしろ利休にスポットライトが当てられて、その文化背景を作り上げる為に、珠光の評価を高く設定した、という仮説が成り立ちます。

それはいったいどういうことなのでしょうか。





続きはネクスト
それでは今日はこの辺で。
さようなら。



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